Shinji.H. 自分史:目次

Shinji.H. 自分史 目次

自分史 生い立ち ダルマの絵 母の想ひ出 絵の世界に進むことを決意 東京へ絵画の勉強に 北区美術クラブ 北区美術会 示現会展 初入選 日展 初入選 取りつかれた写生地…勝浦 沢倉 楢原先生と私 絵描きの旅の一コマ 七洋会 創立 造形展に応募、日本山林美術協会…

あとがきにかえて・・・

2019年末、中国武漢で始まった新型コロナウイルスの蔓延は、瞬く間に世界中に拡散され、日本においても2020年4月には感染者が1万人を超えた。2011年の東北地方大震災の復興途上の日本において、再び試練と言えよう。2020年開催予定の東京オリンピック・パラ…

我が郷里 石巻

「石巻風景」 P10 1981年市の中心を流れる北上川に中瀬が見られる スケッチ1978年 「北上川河口を望む」 F6 1975年 「巻石」 P8 1976年「巻石」の名は、石巻のもとになったという説がある darumaのメルカリ

陸中海岸…東日本大震災の写生地を思う

ウオー凄い、驚きと感嘆そして身震いした。海面から聳え立つ断崖絶壁。迫力と豪快な大自然の造形美を見せる。交通の不便なところとは聞いていたが、乗り継ぎと時刻表に戸惑いながら辿り着いた岩手県田野畑村。 通いなれた千葉県房総の漁村風景からは全く想像…

大自然との出会い 尾瀬に魅せられて

景観だけに目を向け、表面の面白さや物の説明に固執し描いていた絵はどうも退屈でやせて見え、きれいごとに努めていたようだ。落筆点蠅ごとき絵には驚きを感じ探求心に迷い込んでいた時があった。自然をいかに心の内にふれ自分の自然を描きたいと思っていた…

心に残る風景・・・写生地を求めて

「小漁村」 ふと漁村風景を思い出した。何十年前のことにあるのだろうか。千葉県外房の勝浦から太平洋岸に沿う豊浜-新浜-沢倉-川津浜に点在した、ひなびた小漁村、どこにでも目にすることが出来た日本の風土。断崖の間に傾き寄り添う茅葺の漁家、砂浜に引…

写生地 尾瀬

ラジオから流れていた「夏の思い出」を耳にした。1988年夏の日、歌詞の美しさに澄んだ風光を知りたく国立公園尾瀬に早速スケッチに出掛けた。 至仏山を主峰とする尾瀬ヶ原湿原と最初の出会いでした。それはそれは景観美と静けさに感嘆し強烈な印象を受けた。…

写生地 最南端の城ヶ島

城ヶ島へは三崎から城ヶ島大橋で渡る。三崎はマグロ遠洋漁業の基地として有名で港は年々整備され磯の香が漂い活気のある町だ。市内にはマグロ専門店や鮮魚介類のみやげ物屋が軒を連ねている。 対岸に横たわる岩礁や海蝕崖に囲まれた島が城ヶ島で、橋のたもと…

写生地 油壷

波静かな青く澄んだ入江、油壷湾。帆を下ろしたヨットの帆柱が林立しているさまは驚きだ。クルーザーも多数係留されヨットマン憧れのマリン基地になっている。相模湾の突き出た岬全体がレジャー施設で東洋一といわれる京急マリンパークはここにある。目的の…

写生地 荒崎海岸

バス停から遊歩道に従い木々に被われたゆるい坂道をのぼり、ひと汗かいた所の樹間から海が見えてくる。コンクリート製の丸太の柵が現れた辺りが荒崎海岸の高台になり、岩にしがみつくように永い年月潮風に吹かれ耐えてきた一本の黒松がある。枝は陸地の方向…

写生地 剱崎(つるぎざき)

最南端の剱崎周辺を歩いてみよう。私鉄の京浜急行電鉄、三浦海岸駅からバスで剱崎下車、松輪下車、松輪地区の間口港までの丘陵地は三浦大根で知られる畑が続き、キャベツやスイカなど季節野菜の畑を通り小路を下ること20分、間口港の魚市場の屋根が見えてく…

写生地 東端の観音崎  

観音崎灯台を中心に岬一帯が県立観音崎公園に整備されているところで、海洋資料を展示した自然博物館や広大な八つの園地からなり、浦賀水道を行きかう船舶の航行が眺望できる。岬の突端に立つ八角形の観音崎灯台は明治2年にわが国初の洋式灯台として建てられ…

写生地 三浦半島 

神奈川県の南端に突きでた海岸線は変化に富み、大自然の景観に恵まれ四季を通じ観光施設の備えた行楽地として知られている。日本各地がそうであるように、開発と観光化により変貌し続けるのは三浦半島も負けていないようだ。昔は漁村風景といえば房総半島で…

二八会 石巻商業高等学校同級会

1953年(昭和28年)3月石商高卒業の同級会を毎年開催しておりましたが、私の示現会展、初入選を機に、昭和35年から4月に示現会展覧会を鑑賞しその後、上野公園でお花見をしてから懇親会をしようということになりました。 この二八会は卒業後65年間続いており…

南六郷 六美会

1980年、縁あって東京都大田区南六郷で美術クラブを主宰することとなりました。東京城南地区、羽田国際空港と多摩川に隣接した地域で美術や音楽などの文化的環境の少ない地域に、文化の花を咲かせたいとの思いもありました。会員も20名を超え賑やかに油絵に…

結婚

日本橋・浜町に勤務していた頃に同じ会社の同僚であった、寛子と絵画鑑賞や旅行等、趣味が共通なこともあり、交際するようになりました。そして結婚の準備をしていましたが、ご両親の快諾が得られ、最高に幸せな気分でありました。 1963年4月14日結婚式を挙…

向井潤吉先生

向井潤吉先生とは不思議なご縁で家族ぐるみのお付き合いをさせていただく様になりました。向井先生のご長女、Mさんと私の妻となる寛子は弦巻国民学校に通い、戦争中は新潟県越後川口に学童疎開となります。戦後も向井先生は「タンチ山」と呼ばれた世田谷区弦…

東京国際大学 金子泰藏学長

1960年代に東京銀座の小さな画廊で展覧会を開いたところ、見に来た方から、「元気な絵を描いているね!」と褒めて頂いたのが金子先生でした。その頃は、日曜画家の時代といわれ、東京駅・丸の内界隈の路地やビルの近辺は、青年画家が毎週大勢集まっていまし…

造形展に応募、日本山林美術協会に入会

1973年 第5回造形展に応募 日本橋にある造形画廊が開催しました、造形展に応募。当時は絵画ブームでもあり、30歳~40歳代の若手の画家が発表の場を求めて、競うように出品しました。初入選から昭和53年まで連続6回入選しました。 1976年 日本山林美術協会へ…

七洋会 創立

充分気心の知る画友5人が「もっと研究したい。勉強したい。」と響きあうものが顔を合わせているうちに、居関さん、河北さん、清水さん、木村さん、畠山の若さから、一気に七洋会を創立しました。第1回展は、5月29日から6月4日まで京橋の下村画廊で開催しまし…

楢原先生と私 絵描きの旅の一コマ

1960年から61年頃の秋と思いますが、光安浩行、楢原健三、小牧盛行の諸先生方の箱根方面一泊の写生旅行にお供させて頂きました。仙石原は一面ススキの原でホテルや別荘など見かけず広々と、箱根峠からは180度眺望が出来た良き写生地でした。宿泊先は姥子の秀…

取りつかれた写生地・・・勝浦 沢倉

1960年代、鷺の宮の楢原先生のアトリエ通いが多くなり、示現会展出品作品を見て頂き本当にうれしく、帰りは心が弾む思いでした。小牧盛行アトリエ開きでの、出品作品評に従い大変なことだが描く時間をもっと増やしたいと思いました。 F50を風呂敷に包み、休…

日展 初入選

1960年の示現会展、初入選から6年。会友、準会員と昇格し、いよいよ日展に挑戦したいという意欲がわいてきました。そして初出品で初入選となりました。出品作は千葉県銚子から近い外川魚市場を訪れ何回も取材し10号のキャンバスに描いた下絵から制作しました…

私の画歴  示現会展 初入選

1959年に改装になった、小牧盛行先生のアトリエには、楢原健三、大野五郎の各先生方が多く集まり、私は毎日夜になると作品を抱えて批評を受けに訪問しました。酒を酌み交わし、時には美術界全体のことが話題となりました。作品は当時私が住んでいた北区西が…

北区美術会

1959年 示現会 小牧盛行先生に、楢原健三先生の鷺の宮のアトリエを紹介され、初めて見る油絵を目の前にし、希望と絵描きになりたいという気持ちが、ふつふつと湧いてきました。 1959年 改装になった小牧盛行先生のアトリエ開きには、大野五郎、楢原健三、大…

東京へ絵画の勉強に 北区美術クラブ

高校を卒業して2年後、絵描きになる夢を求めて、そして母から「芸は身をたすけ」と背中を押され上京しました。父母からも「ここに住めば安心だから」と東京都北区西が丘、叔父(母の弟)宅に寄寓し、そこから阿佐ヶ谷美術学院、フォルム洋画研究所、中央美術…

画家について

作者:畠山新治 1934年生まれ 宮城県石巻市出身 楢原健三、大野五郎に師事 示現会展 日展 造形展 入選 2017年 示現会理事に就任 2020年 向井潤吉氏との不思議なご縁や、東京国際大学の創立者である金子泰藏学長との出会いなど語った自分史を書き上げる 2021…

絵の世界に進むことを決意

昭和25年石巻商業高校に入学しました。在学中、K先生から毎日放課後石膏デッサンの指導を受けました「ダルマ」の絵で褒められたことがきっかけで、絵に興味を持ちましたが、K先生から指導を受けたことにより、さらに絵画への道を進むことに希望を持つように…

母の想ひ出

米英と戦争こと故、炊出しに家を守り子供達は手のかかる一方食糧難。農家の畑仕事に町内会、隣り同士で荷車を押し食糧増産で毎日のように力仕事で精一杯働いていた小柄な母の姿が今も目に残る。 当時の飲料水は井戸水で、天秤棒の前後にかけた桶の水が波打ち…

ダルマの絵

昭和16年の太平洋戦争勃発の時、国民学校一年生。敗戦した昭和20年は生涯忘れる事は出来ない世代です。敗戦国日本は、しばらく貧窮の生活に苦しんでいました。戦火に怯えていた昭和18年ごろの日本は本土決戦に入り、担任の先生から「戦地の兵隊さんに慰問の…